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クリエイターズインタビュー

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ホッチカズヒロ

ホッチカズヒロ

プロフィール

埼玉県出身。
大宮光陵高校美術科から本格的に美術を学び、多摩美術大学で中谷日出先生に師事。
NHKの公募番組デジタルスタジアム入選を期に作家活動を開始。
東京芸術大学大学院をへて、2005年NHKみんなのうたでデビュー。
2008年 NHK星新一ショートショート『ある夜の物語』アニメ制作
2008年 NHKみんなのうた『クリスタルチルドレン』アニメ部分制作
2007年 NHKみんなのうた『のびろのびろだいすきな木』映像制作
2006年 ノッポさんホームページコンセプトデザイン、グッズ等制作
2006年 文化庁メディア芸術祭優秀賞 『アニマ』
2005年 文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞『アニマ』
2005年 NHKみんなのうた『空へ』映像制作

ホームページ : ホッチカズヒロHOMEPAGE

作品

  • DOUDOU 第1話
    ~DOUDOUと大きな樹~
  • DOUDOU 第2話
    ~DOUDOUの旅立ち~
  • アニマ
  • WHEELS

インタビュー

映像作家として活躍中のホッチカズヒロさんに話をうかがいました。

[Chapter1] 楽しく絵に親しんだ子ども時代

――まずは、ホッチさんが本格的に美術を学ばれるまでのお話をうかがいたいと思います。どんな子ども時代を過ごしましたか?

物心付いたときから絵を描くのが好きでした。小学生の頃までは、恐竜の絵とかロボット、マンガの絵などを色々と楽しく描いていましたね。中学生の頃になると、本格的に絵を描くのが楽しくなってきて、美術を専門に学べる学校に進学したいと思うようになりました。そこで中学校の先生に見て貰ってデッサンの指導を受けるようになりました。

――そして埼玉県内の大宮光陵高校美術科に進学されたわけですね?

はい、大宮光陵高校ではデザインや日本画や油絵などの美術全般を一通り勉強しました。基礎的なことが中心でしたね、デサッンを一日に何時間もやりました。この頃から書くものがマンガから美術に変化してきたと思います。

――では高校時代から今の職業を目標にされていたのですか?

いえ、アニメーションを始めたのは大学に入学してからです。この頃は将来デザイン会社でデザインの仕事をすることを考えていました。

[Chapter2] アニメーションとの出会い

――卒業後は多摩美術大学へ進学されましたね。大学時代はどのような制作をされましたか?

大学二年まではデッサン等の美術、デザインの基礎が中心でした。大学の授業でよく覚えているのが、美術の歴史を学ぶ授業で、今週は印象派風とか次の週はピカソ風とか様々な作風で絵を描くのが面白かったです。

――アニメーションの制作を始めたのはこの頃ですか?

僕が描いた車の絵を先生に見ていただいたとき「それを走らせて見たいね」ということになったのがきっかけでした。ちょうどこのの頃にアルバイトしてためたお金で買えるパソコンでアニメが作れるような環境になったので、まわりもやりだしていました。それで描いた車の絵を「爆走BABY」という作品にしてデジスタ(NHK デジタル・スタジアム)に取り上げてもらいました。この作品は後に「WHEELS」という作品になっています。それからは作品を作ってはデジスタに送るの繰り返しでした。

――そして「DOUDOU~DOUDOUと大きな樹~」を制作されたのですね

はい。最初は子豚が朝起きて散歩に出て家に帰っておしまい、という作品でした。しかし作品を見ていただいた先生からお話をつくろうという提案をいただきました。そこで先生の知り合いだったサンプラザ中野さんにストーリーを作ってもらいました。

――この作品は大学の卒業制作として作られたのですね

はい、この頃から就職する前に一つ作品を作っておきたいと思い始めていました。社会に出る前に自分の自由に作った作品を残しておきたいと。そこでこの作品を卒業制作として時間をかけて制作しました。

[Chapter3] 本格的な制作を開始

――大学卒業後はどのような活動をされましたか?

当初卒業したらCMの制作会社に就職しようと考えていたのですが、自分で作品を作るのが楽しくなったのでもう少し自主的に制作しようと思い、東京芸大の大学院に進学することにしました。まずは「DOUDOU」の続編を制作しました。
またこの頃になるとアニメーションを作るプロとしてやっていく決心をしました。そこで単純に人が動いているだけの作品を作ろう、人の動きを完全にマスターしよう、と思い「アニマ」の制作を開始しました。この作品は紙とシャーペンを使って手書きで一枚一枚描いていきました。全部で1500枚くらいになると思います。

――「アニマ」は大変力強い素晴らしい作品で、色々なところで賞も受賞されていますね

結構見てくれた方がいたみたいで初めて会った方も知っていますと言ってくれて嬉しかったです。

――そしていよいよNHKみんなのうた「空へ」でデビューされるわけですね

はい、「空へ」は「アニマ」と同時期に制作しました。この作品を制作したのは「NHKみんなのうた」の関係者の方が僕の書いた空の絵を気に入っていただいたのがはじまりでした。そして空の絵を作曲家の松本俊明さんに見ていただいてメロディーを作っていただきました。作っていただいたメロディーを聞きながら空でどう表現を広げていくかを考えて、背景の空とか木とかサンゴとか混ざった絵を描いていきました。その世界に何か白いもの登場させようと思い、白いものをたくさんいてみて、最終的にオコジョとイルカが登場するキャラクターに決まりました。出来たものをミュージシャンのハシケンさんに見ていただいて歌詞を書いていただきました。その後歌手が岡本知高さんに決まり、完成した歌を聴いてアニメーションを完成させました。

――つまりこの作品はホッチさんの絵からメロディーも歌詞も生まれたわけですね。

そうですね。はじめの空の絵を描いてから完成までに2年以上かかりました。とても思い出深い仕事になりました。

[Chapter4] クリエーターを目指す人へメッセージ

――最近では多くの若い人がアニメーションやデジタルアートに挑戦しています。その中にはプロを目指している人もいると思います。最後にそんな若い人たちに向けてメッセージをお願いします。

社会に出る前に自由に作った作品を残しておきたいと思って制作した「DOUDOU」。
でも足りなくなって大学院に進学して「アニマ」を作りました。自分があれだけ長い時間をかけて「アニマ」を作れたのは学生だったからです。自由に出来るのは学生のときだけなので、学生の人は貴重な時間を後で後悔しないようにじっくりと作品を作って欲しいです。また、「作ること」と「人に見てもらうこと」の両方が大切だと思います。最初は恥ずかしくてコンテストへの応募をためらったり、落選して傷ついたりすることだってあります。
でもそこにしか広がっていく可能性はありません。人に見てもらってほめて貰う、またはけなされることで、自分が描いたものが伝わっているかがわかる。そして「自分の作品はどういうものか」ということは人に見て貰って始めて認識できることがあると思います。また専門のその世界はもちろんのこと、一般の人の意見も大事です。作る情熱と同じぐらい人に見てもらう情熱を大切にしてもらいたいです。

取材・文・写真:山内俊介(株式会社デジタルSKIPステーション) 2008年12月11日

望月智充

望月智充

プロフィール

望月智充

昭和33年生まれ。
埼玉県在住。
「ときめきトゥナイト』の演出でデビューし、「魔法の天使クリィミーマミ」の演出、劇場版「きまぐれオレンジ★ロード あの日にかえりたい」、ジブリ作品「海がきこえる」の監督を経て、「ふたつのスピカ」、「勇者指令ダグオン」数々のシリーズ総監督を務める第一線のプロアニメクリエイター。
「コードギアス」などの絵コンテも制作している。

ホームページ : 亜細亜堂

作品・インタビュー映像

  • MISSION SCHOOL
  • インタビュー映像
鈴木専

鈴木専

プロフィール

鈴木専

鈴木 専 (スズキ・アツシ)
福島県生まれ。東京芸術大学油画技法材料研究室出身。1999年映像集団「スタジオシコデリコ」に入団し、マンガの制作を開始。2001年退社以降もマンガ作りを続けている。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2007 短編部門 最優秀作品賞 受賞  「レッツゴー番長デッドオアアライブ完全版」

作品

  • はな
  • レッツゴー番長
    デッドオアアライブ完全版
ダイノサトウ

ダイノサトウ

プロフィール

埼玉県出身。
1968年 東京都生まれ。
東京理科大学建築学部卒業時、設計ミスは人の命と財産を奪うということに、遅まきながら気付き、アニメーションなら奪うのは時間くらいだと盲信。東放学園専門学校を経て、CGアニメーションの道へ。CG制作会社を1996年に退社し、フリーランスのアニメーター、ディレクターとなる。
主な作品に、TREEDOM(1999)、あか あお ふたりで(2006)、カエルのタネ(2008)、カエルのハコ(2009)。
2008年開催の、第12回広島国際アニメーションフェスティバルでは、ポスターならびにキービジュアルを手がける。
「カエルのハコ」は、週刊アスキー主催の第7回ショートムービーコンテストでグランプリを受賞。
「あか あお ふたりで」は 文化庁メディア芸術祭2007に於いて、審査員会推薦作品に、BIMINI2007(Latvia) では、ウィットと光覚賞(diploma for wit and light perception ) を受賞。
「Treedom」、「SCRAPLAND」はアヌシー、シナニマ、アニマムンディ、アニマドリッドなど、多くの国際コンペティションに入選し、ICA( ボストン)、ポンピドーセンター等でも上映される。

ホームページ : ダイノサトウHOMEPAGE

作品・インタビュー映像

  • カエルのハコ
  • カエルのタネ/Frog Seed
  • あか あお ふたりで/
    The Line Magic by Red&Blue
  • TREEDOM
  • SCRAPLAND
  • 【ダイジェスト映像】
    ダイノサトウ氏

インタビュー

アニメーターとして活躍中のダイノサトウさんに話をうかがいました。 聞き手:鈴木紀之氏(早稲田大学川口芸術学校 学生)

アニメーションの仕事を始めるまで

――ダイノさんは、大学では建築を学んでいらしたとのことですが、そこからアニメーションに興味を持ったきっかけというのを教えていただけませんか?

中学1年の時、数学の先生が学校に持ってきた、ご自慢のマイコンを見たことで、コンピューターというものに興味を持ちました。
その頃、画面は緑と黒の2色なのに、とても高価だった。それが高校生ぐらいの時には、パソコンと呼ばれワープロも出来て、モニターはなんと128色に。その頃から既にCGというのはあったんですが、画面に点や線を描くぐらい。しかも数式で書かなきゃいけない。

それで美術は好きだったので、高校の時は美術部だったんですよ。
あと数学が好きだったので、数学とか物理、芸術とかを考えると建築しかないのかなって。それで僕は建築の方に入ったんです。
僕が入った大学は設計とかは、あまり強くない。構造とかを学んでいたんですよ。そうすると、だんだん自分のやりたいことと離れていくんですよ。確かに面白いんですけど、違うなと(笑)。

卒業する時には、映画『ジュラシック・パーク』が封切りになったり、NHKの『人体』と言うテレビ番組など、CGで言うとエポックメイキング的な番組がやっていたんですよ。
CGっていうのが、だんだん盛り上がってきている時で、大学を卒業する時にかなり悩んだんですけど、親にわがままを言って就職せずに、CGを教えている専門学校を探しました。そこにたまたま原田大三郎さんという方が講師をしている学校を知りまして、そこに入り、何とか原田さんの事務所に入ったというのが経緯ですね。

今とは違うCGの制作環境

――制作環境は今とは違うのですか?

僕が高校の時には、CGの産業なんて微々たるものでした。それがたった5年ぐらいであっと言う間に一大産業になって。
あの頃はまだみんなお金があったんで、CGのシステムが高い物で1千万、2千万とか。モノによっては、億というのもあったんですよ。僕ら下っ端が使っていたモノでも、安くて400万とか500万。今はもうソフトが学生版で10万、マシンで15万ぐらい。

そうすると何が起きるかっていうと、単価がもう違う。CGの単価が。今は正直な話、当時と比べると1桁~2桁くらい安い。もう今はそういう世界です。結局、ソフトやマシンが安くなったし、やれる人もいっぱい増えたので、それがやっぱり大きいですね。
映像編集も、当時は、1時間ウン万円もする編集室を1日中使って合成、編集していた。今はアフターエフェクトとファイナルカットがあれば、全て自宅でも出来てしまう。納品もサーバーにアップするだけ。そういう意味ではプロセスが違う。
もう世界が違いますよね。

オペレーティングと表現方法の関係

――ダイノさんはCGの学校に入った時に、作りたいビジョンというのは見えていたのでしょうか?僕は、いかに表現するかというのがまだ固まっていないのですが。

特に僕はなかったですね。学校に入った時にこれを作りたいビジョンというのは。ただそれよりも、映像をどうやって作るのか、CGをどうやって作るのかがまったく分からないので、とにかくひたすらオペレーティングなんですよね。

僕は今、大学で教えているのですが、その時も一番そこがひっかかるんですよ。なぜかって言うと、オペレーションができないと自分の持っているものを表現できないじゃないですか。でも、オペレーションばかり教えていると結局何を作ればいいか、どう表現すればいいかというのが教えられなくなっちゃう。その表現方法だけ教えると、今度はオペレーティングがくっついてこないので、結局稚拙なものになってしまう。

作家性の形成

――ダイノさんご自身の作品に共通する作家性みたいなのを感じたんですけど、ダイノさんの持ち味や魅力を、こういう表現でやっていこうと固まったのは、どのような時期なのでしょうか?

その固まった時期は、仕事をしながらですね。結局仕事って言うのは、無理な要求を突き付けてくるわけですよ。こんな金で、こんな期間で、こんだけやるの!みたいな。
それがいつも続くんですよ。正直な話、最近はそれがどんどんエスカレートしている。前は10秒のCGを1カ月かけていたのが、3週間になり2週間になり、最終的には明後日みたいな(笑)。
それをやっていくうちに結局、言い方悪いですけれど手抜きというか、どうしたら生産性が上がるか、みたいなことをやっていくうちに、何となく見えてくるんですよね。

あとは自分の作品を1個1個作っていくうちに、それがだんだんと固まっていって、それで何とかできていった。

アニメーションを作る理由

――ダイノさんがアニメを作る理由は何ですか?

ずばり、お金、生活のためです(笑)。僕は他の仕事はできない。お金だったら違う仕事した方がいいんでしょうけど、本当は。
あとは好きだということだと思います。動かすということが好きなんで、やっぱり何でも動いた時が一番面白いんですよね。それだけでしょうね。動かして出来上がった時にようやく楽しいなあって。 それがモチベーションだと思う。

あと、上映した時に、「誰かが楽しい」って言ってくれたり、拍手してくれたら嬉しい。誰かに楽しんでもらう。それしかないと思う。

これからのクリエイターに求められるもの

――今と昔とで、何か変わったなというのはありますか?

一番大きいのはネットですよね。
10年くらい前も比較的、ネット環境は当たり前だったんですけど、動画が見られなかったじゃないですか。
やっぱりYouTube、ニコニコ動画ですね。ここんところの、一番大きな変化は。何せ、タダで動画見れてしまう。

これからのクリエイターに求められるもの

――値段が安くなって、生き残っていくためにはどうすればいいですか?

どうすればいいですかね(笑)。僕も正直分からないです。
3DのCGって工業製品と同じなんですよ。自動車や洋服屋さんが工場を人件費の安いベトナムとかに持っていきますよね。
あれと同じ状況なんですよ。
アメリカのハリウッドのCGとかでも、スタジオをインド、シンガポール、マレーシアなどに作っているそうです。
そうするとアメリカ側が深夜でも、地球の反対側のインドやマレーシアではお昼。一日中、仕事が途切れないという分業が可能になっている。しかもデジタルデータなので、ネット回線で共有出来る。そうなるとどこで作るかなんて関係ない。
特にどこにでもあるような家具、建物、風景、炎、光などの特殊効果なんて言うのは、もうそれは誰が作るというのは関係なくなっちゃう。それが今の3DCG、映像制作のシステムなんですよね。そういう意味では工業製品と同じ。

そうなってくると最終的に生き残るには、自分の考えているものとか持っているものをどう表現していくかだと思うんですよ。作家性という部分ですよね。そういうところに行きつくしかないんじゃないかな。

これからはクリエイターというのがかなり変わってくるのかなという気はしますよね。
クリエイターだけに留まらず、全ての分野で言える事だと思います。
例えば、僕のおばあちゃん世代は、読み書き、そろばんが出来れば、食べていけた。でも今は、ワードができなければいけない、エクセルで表が作れなきゃいけないなど、マルチでなければいけない。どんどんハードルが上がっている。

僕は、大学で建築をやっていたので、TVの建物を作るCGがあるんですけど、それをやる時に図面が読めるCG屋というので、重宝がられます。図面をもらうと頭の中で組み立てられます。
そういう意味で、別の専門を持つという事はとても重要だと思うんですよ。逆にそれを持たないと他の人と差別化を図れない。そこはすごく大変だと思うんですけど、何でもいいんですよ。語学でもいいし、演劇でも、料理でもいい。色々な見方を持つことが、すごく必要だと思う。これからは特に。それがないとステップしていかない気がする。だからこれからやっていく人は大変だと思います。」

――今日はありがとうございました。

ありがとうございました。

取材・文:小西隆博(株式会社デジタルSKIPステーション) 2011年2月7日

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